100年のあゆみ

長谷川製作所 技術の足跡 / 送信管アノード

1928年(昭和3年)、東京市荏原郡目黒町に新工場建設後、東京電気(株)より、送信管部品で銅板から筒状に絞り出すことができるかと依頼を受け、これに取組み試作と失敗を繰り返し6か月後に、銅板から銅筒に絞り出す技法の開発に成功しました。これによりわが社は水冷式真空管陽極、ウオータージャケット、ラジエーター各種の生産に特化し、東京電気(株)との取引が始まりました。東京電気(株)はこの銅筒の成功によって昭和9年、画期的な陽極損失250kWの大型水冷三極管を製作し、戦前の送信管製作の歴史を変え一大隆盛期を迎えました。

また、満州事変が始まるとともに、無線通信機装置の製作が多忙を極め、水冷送信管の製作も繁忙を極めることになりました。

わが社は国家的要求に対応するため、1934年(昭和9年)に東京電気(株)の子会社になりました。第二次大戦後の生産再開もこの送信管アノードが最初であり、この開発の成功が大きな力となり1947年(昭和22年)に独立会社となりました。

1976年(昭和51年)、横浜に工場を移転するまで送信管アノードの生産を継続していました。

送信管アノード 1
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