100年のあゆみ
Anniversary 100th
当社は、1918年(大正7年)10月、東京市芝白金で、長谷川仁三郎氏と、翌年4月弟磯松氏とが加わり板金加工業を、営むことにより始まります。
長谷川仁三郎氏は、東京市芝白金三光町(現在東京都港区白金 1-6番地)で1893年(明治26年)1月8日4人兄弟(姉松子・次男磯松・三男広司)の長男として生まれました。幼少より行動的で、お人よし、独特の人なつっこさを持ち、決めたことは最後までやりぬく粘り強さをもっていたといわれています。
父親は1853年(嘉永6年)大阪の漢方医薬業をしている薬屋の長男として生まれました。漢方医薬業は祖父の時代からであり、町では旧家に属するほうで、商売も繁盛していましたが、江戸末期から明治維新の政情不安な時期、仲間と共に京都・名古屋・江戸へとやってきました。世の中も安定せず、農業者が8割をしめる時代であり、働く場所も少なく、特種技能がなければ殆ど働くことができない時代で、まして大阪から流れて来た者では、知人も身元引受人もいるはずもなく、働く場を何度となく変えざるをえなかったようです。
仁三郎氏は1899年(明治32年)4月に尋常小学校へ入学します。当時の小学校の義務教育は3年でしたが、入学して 1年半後の1900年(明治33年)10月、小学校令改正により4年となりました。
しかし、家は困窮した生活であるがため、新制度で小学校を卒業させてもらえず、1902年(明治35年)、小学校3年(9歳)旧制で卒業し、4月より家計を助けて丁稚奉公に行くことになります。最初の奉公先は自転車屋で1902年(明治35年)4月から2年間11歳まで奉公しました。
年期明け期間の2年が近付くと両親は、次の年期奉公先を探すことになり、彼の将来を考えた時、商人になるより職人になることが一番であると思い、彼と話し合ってから、板金加工の職人である中川金蔵氏のもとで、年期奉公をすることになります。
1904年(明治37年)4月から1911年(明治44年)3月、11歳~18歳まで約7年間、板金加工技術と職人としての心構えや商人としての礼儀・作法・商売のコツについて指導をうけ、夜は独学で一般教養と板金加工方法について一生懸命学問に励みました。約束の年期奉公期間が明けて、中川金蔵家を出ることになります。しかし、板金加工技倆は、まだ若干力不足で職人として一人歩きのできる状態ではないと思っていたようです。
そこで、奉公明けと同時に更なる板金加工技術の習得を目指して、1911年(明治44年)4月~1914年(大正3年)12月、18歳~21歳まで約3年間、神田黒門町の石橋入三郎家に厄介になり、再度板金加工技術の習得と仕事に対する取り組み方、特に精神面について指導を受け、板金加工技能者・職人として若干自信が持てるようになりましたが、石橋家の経営状態が極度に悪化し、これ以上石橋家に厄介になることができなくなり、石橋主人の紹介によって、四ッ谷の同業者、岩崎己之助氏宅に、1915年(大正4年)1月~1918年(大正7年)9月、22歳~25歳まで約3年9カ月間厄介になりました。この家では消火器を作っていました。そのかたわら農商務省水産講習所・工業試験所・東京衛生試験所、並びに理化学研究所の各役所から化学機器類の実験装置や試験器具の仕事を理化学器械薬種商の社長・小林太一氏を通して、二次外注として注文を受け、それを岩崎家で作っていました。
仁三郎氏は1918年(大正7年)1月丁度25歳の年、一念発起して独立を考え、10月に独り立ちをすることになります。
弟である長谷川磯松氏は、1898年(明治31年)12月15日東京市芝白金三光町にて4人兄弟の3番目の次男として生まれ、磯松氏の幼年から少年時代は困窮した家に育ったので苦労の思い出だけが多く、楽しい思い出は少なかったと述べています。
1905年(明治38年)4月尋常小学校へ入学、1908年(明治41年)3月同小学校3年(9歳)を優秀な成績にて修了します。その後、兄仁三郎と同じように家計を助けるため2年間の約束で布団屋さんに子守丁稚奉公にでました。
しかし、向学心はより一層強まり夕食を済ませてから寝るまでの間は、自分の知識を高めるため、読み書き・算術その他で毎日新しく覚えることを『10個』と決め、目標に向かって努力していました。その後、電気商店で、1910年(明治43年)4月1日より1913年(大正2年)3月末日(14歳)まで、 3年間丁稚奉公に行くことになります。電気商店での1日の仕事は、朝6時30分起床 8時より朝食 9時開店・夜7時閉店。職務内容は商品の配達や引取・店での商品の出し入れ・商品の管理・その他雑用であり、閉店後の自由時間中は、本を読み、漢字を書いて覚え、また算術の計算をして勉強に励み自分を少しでも高めるための努力をしていました。
『これからの世の中はある程度の学問を身につけておかなければ生きて行けない時代が必ずやってくる』と思うようになり自分の将来についていて不安を感じ始め、私立明治学院普通学部(中学校に等しい)へ入学することを目標にして努力し、3月の始めに入学試験を受け見事合格しました。
その後仕事をしながら勉学をするために、銀行の給仕の仕事や、牛乳配達などをしていましたが、この年の6月頃から、兄と同様、板金の職人なることを考え、兄の奉公先へ兄を通してお願いをし、岩崎己之助家に厄介になることが決まりました。
1915年(大正4年)10月より、岩崎己之助家で兄から板金加工技術の指導を受けながら、日中は物作りに励み、夜は学校に行って学問を学び懸命に努力しました。1918年(大正7年)3月(19歳)明治学院中学部を目出度く卒業することができました。
1919年(大正8年)3月31日、岩崎己之助家での丁稚奉公年期(3.5年)が明け、1919年(大正8年)4月1日より、職人として兄の工場で働くことになります。しかし、向学心は留まらず、神田電気専門学校(現神田電機大学)を受験、1924年(大正13年)4月入学、昼は仕事をし、夜は学問に励み、1927年(昭和2年)3月、29歳で神田電気専門学校を卒業します。神田電気専門学校を卒業して4年後の1931年(昭和6年)3月、33歳で従兄弟の長谷川愛子と結婚することになります。
長谷川兄弟の板金加工業は、良いものを約束どおり作るという姿勢が評価を受け、順調に業績を伸ばしていきます。初めは、1.5坪の工場でしたが、1925年(大正14年)4月、工場を4.5坪に増設し見習工2名を増員し、1928年(昭和3年)4月には東京市目黒区上目黒2丁目に19坪の工場と工員の寄宿舎を建設し、人員は7名となりました。
1928年(昭和3年)、東京電気(株)からの依頼があり、銅板の絞り加工に成功することにより、生業から企業へと変革し大企業の子会社となり、第二次世界大戦中の激動の時代を生き抜き、戦後はこの独自の技術がいち早く役立ち、会社の再開、独立に向けて、無線通信機用送受信管用陽極を持って、世の中に報いることになります。